身体で学ぶということ

毎日新聞「くらしの明日」に寄稿(2月4日掲載)。

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小さい頃、よく草野球をやった。

障害をもつ兄は、当時はまだ補装具を着ければ立てていた。

だが走ることはできない。

私が兄の後ろに控え、兄が打ったら私が走った。バットスウィングもおぼつかなかったので、ピッチャーは3歩ほど前へ出て、下手投げで投げた。

勝負!という張りつめた感じはなかったが、はれ物に触るという雰囲気でもなかった。

その場に兄がいる現実を踏まえて、それでも楽しむためにはどうするか。

ほどほどに塁に出られて、ほどほどにアウトにできる「ふつうの状態」を作るために、みんながルールを調整した。

思えば、いま流行りの「課題解決型の主体的学習(アクティブ・ラーニング)」の実践だった。

それは、先生が答えを隠し持っていながら「さあみんなで考えてみよう!」と課題を提示するのとは違って、リアルだった。

答えなどなかったし、できあがった状態が結果として答えになっていただけだった。

大人になって、乙武洋匡さんからも同じ話を聞いた。ドッジボールのとき彼がボールを持つと、みんなが3m以内に寄っていくというルールができていたそうだ。

あの感じだ、と一瞬で理解できた。

子どもたちは、状況に応じて最適化していく課題解決力をもともと持ち合わせている。

そして幸いなことに、小さい頃の私の周りには「子どもたちが負担させられてかわいそう」と言い出す大人がいなかった。

おかげで私たちは、課題解決を生きることができた。

誰かが兄を連れ去ってしまったら、既存のルールを疑い、現状に応じて最適化していくという体験も一緒に連れ去られてしまっただろう。

私は、ルールを墨守するだけの、つまらない人間になっていたかもしれない。

『みんなの学校』という映画の上映が始まる。

舞台は大阪の市立大空小学校。そこではたくさんの「問題を抱えた子」が「ふつうの子」たちと同じクラスで学んでいる。

試写会で映画を見て、私はそこの子たちに「よかったね」と言いたくなった。

「問題を抱えた子」にではなく「ふつうの子」たちにだ。

だってその子たちは、これからますます必要とされる「課題解決型の主体的学習」を学べている。

科目ではなく学校生活のすべてを通じて、頭ではなく体で。

そんな学校に通えて、子どもたちはラッキーだ。

将来、その子たちはルールにただ従うだけでなく、ルールを人に合わせられる人間本位の大人になるだろう。そんな力をどこで身につけたのかと聞かれても、本人は「あたりまえだろ」としか答えられないかもしれないが。

生きた知恵を体得するとは、そういうことだから。

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映画『みんなの学校』上映スケジュールは以下。

http://www.minna-movie.com/theaters.php

文科省の「特別選定作品」に選ばれたそう。各地の教育関係者による上映会も開きやすくなるのではないかと期待。ぜひ検討を。

  1. 荒木しう子 says:

    子供のころ遊ぶとき 小さい子は「あぶらんこ」にして いっしょに遊べるようにしてました。高度経済成長前の 山形の田舎の話。 思い出しました。  ご本「ヒーローを…… 」注文します。

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    ..

  2. 小学校の頃、小さないじめもして、担任の先生に殴られたこともありましたが、聴覚の不自由な友人とよく遊んでいました。 その友人とは一緒の中学に行くものとばかり思っていましたので、行けないことが分かった時に、ほかに友人たちと校長先生に直談判しに行ったことを思い出します。 「残念だけど、俺も何とかしてやれない。 すまん。」と校長に頭を下げられました。もっと、頑張れたかもしれん、と今も、友人と話をしています。 

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